ニフティが2006年3月末でパソコン通信サービス「NIFTY-Serve」を終了するという。モデム接続によるテキストベースのサービスが終わるのは時代の変遷として致し方ないが、“あの時”のコミュニティのあり方には、今も学ぶべき点は色々あるのではないだろうか?
ニフティがパソコン通信を終了するというニュースを受けて、昨今のインターネットとパソコン通信を比較して考察した記事。なかなか面白いです。
この記事では、NIFTY-Serve が隆盛を極めたことの要因として、優秀な巡回ツールの存在、それから最近の SNS が持つような、「プライバシーを守りつつ匿名性を持ち、その気になれば個人を特定できるという安全性」ということを挙げています。
記事の中では、
ニフティがISP業務に乗り出したときに、まさにこの仕組みを実行することができたら、ネットの世界もずいぶん様変わりしたことだろう。NIFTY-Serveのシステムオペレーター(シスオペ)たちも、パソコン通信からインターネットへのスムーズな移行に関してずいぶんアイデアを出したし、メンバーに協力を仰げば、知財も十分足りたはずだ。今でもそこに留まって頑張っている仲間もいる。
だが、結局それが実現されることはなかった。パソコン通信最大のコミュニティの上に「神」として君臨した奢りがなかっただろうか。
といった考察が見られるのですが、僕個人の感想としては、技術が発達してきた今だからこそインターネットという新しいインフラの上で SNS のように、パソコン通信がもっていた側面と同様の機能を持ったコミュニティが実現できたのであり、それをインターネット普及過渡期の当時に実現しようとして可能だったかというと、それは難しかったのではないかというところです。
例えば HTTP というステートレスな環境においてのユーザー認証やセッション管理といった仕組みを一つとっても、ウェブアプリケーションシステム構築の技術がそれほど確立されていない時期には、デファクトとなるような実装手段がなかったし、十分なパフォーマンスとスケーラビリティをもってそれを実現するためのソフトウェアやハードウェアも存在していなかった。そのような環境の中では、たとえアイデアを思いついたとしても、そのアイデアを実際に具現化することができるだけの技術力とコミュニティマネージメント能力、企画力をもった人員を確保するということはほぼ不可能だったことでしょう。
加えて、インターネットが普及して、ユーザーがある程度インターネットの上での行動パターンを自分たちで認識するだけの時間がたったからこそ、blog や SNS といったものの魅力にも気づくことができたわけで、まだそこでできること、その可能性の大きさを客観的に判断できるだけの経験がなかった当時に、コミュニティを体系的に維持できるような仕組みやシステムを設計することは相当ハードルが高かったのではないかと思います。
この記事においては、NIFTY-Serve のモデルと良くにたものとして SNS の存在を挙げていますが、僕としては SNS よりも、blog + RSS の世界の方が、パソコン通信をインターネットに移してきたすがたに近いのではないかと感じています。
逆に、なぜ SNS にそれを感じないかと言えば、一つはその閉じられすぎたコミュニティという点が挙げられるかなとおもっています。SNS は基本は現実での知り合いをベースとしたコミュニティなので、その個人が想定していなかったような事象が起こりうる機会はそれほど多くない、という点があると思います。
パソコン通信やインターネットに共通していたポイントというのは、自分の手で生み出したテキストがネットワークを伝播することにより、自分の想定していない箇所でそれが様々な事象を生み出すというところでしょう。お互いに全く面識のない人が自分のテキストを読んで、何かを考え、それに対してリアクションを起こす。ある日突然、巨大なサイトからリンクされて自分のサイトに大量のトラフィックが流れ込む。自分が書いたテキストが多くの興味呼び、議論の種になる。そういった意外性というか、ネットワークなしにはありえないことが起こるからこそ誰もがそこに可能性を感じたのであり、SNS にはそういった意味での可能性を感じることはそれほどありません。
例えば mixi の日記を不特定多数の相手に公開し、その運営を行っていくことで同様のスタイルをとることは可能でしょうが、そもそもコミュニティのコンセプトがそこに在らずという以上、先にあげたような事象が起こりうる期待値はそれほど高くありません。(逆に、知り合いをベースとした、想定した出来事しか起こりえないコミュニティというのが心地よく、そこが SNS の最大の魅力ではないかとおもっています。)
blog にはその裏側で標準化された技術があり、すべてのテキストが記事単位で整っていて、ネットワークでテキストが伝播しやすいという特性があり、他者との繋がりを実現しやすいという重要な要素があるため、そこに起こりうる様々な出来事に対する期待値が高いのだと思います。つまり、blog サイト全体を俯瞰して見ると、それはインターネットというインフラに最適化されたスケーラブルなひとつのコミュニティなのではないか、ということです。
ニフティにいたときの頃を思い出すと、blog や RSS といったものに触れたとき、ニフティの中の人たちは、それに対する感度は平均して非常に高かったですし、その可能性を説いて理解してもらうまでにもそれほど時間がかかりませんでした。それは彼らがパソコン通信時代から、コミュニティのあり方やアーキテクチャ、運営の仕方というものに頭を悩ませてさまざまな努力を行ってきた過程があったからこそであり、決して「神として君臨した驕り」といったものではなかったのではないかと、振り返ってみてそう思います。